スペイン語講座・スペインとの文化・AIYES通信 | 横浜スペイン協会|

サンティアゴ巡礼路便り⑱

2016年8月30日

8月27日、アストルガに着きました。

ここは南から来る銀の道と交差する地点でローマ時代から交通の要衝として栄えた町です。

5年前、ここの巡礼宿(大聖堂のすぐそば)に2週間滞在してボランティアをしました。今も巡礼宿の受付には当時の写真が貼られています。

昼食は近所のスーパーで買い物をしてビーフステーキ、野菜サラダと桃、と豪華ですが費用はレストランの半額以下で済みました。

サンティアゴ巡礼路便り⑰

2016年8月29日

8月24日、レオンに着きました。

この一週間は平らでまっすぐに伸びたメセタと呼ばれる平原を歩きました。温度が30度を超える日が続いています。いくら湿度が低くても体にこたえるため多くの人が夜明けの1時間以上前から歩き始めます。月明かりって、意外に明るいですね。集落を一歩出ると真っ暗な畑の中です。月明かりで道に自分の影を見ることができます。

レオンはこれまでに何回となく訪問した町です。観光スポットもたくさんあります。

 

休養と事務処理のため連泊しています。

サンティアゴ巡礼路便り⑯

2016年8月25日

8月20日、カリオン・デ・ロス・コンデスに着きました。

巡礼者相手の店、レストラン、宿が多くあります。

私はサンタ・マリア教会付属の巡礼者宿泊施設(アルベルゲ)に泊まりました。夕方には満員でした。

教会ではクラッシックギターの演奏会やミサなど、宿泊施設ではシスター達と一緒に歌う会や夕食会に出ました。会話は英語とスペイン。

サンティアゴ巡礼路便り⑮

2016年8月25日

昨夜はフロミスタ泊でした。

ここにはスペインで一番完全な形で残っているロマネスク様式の教会(サン・マルティン教会)があります。ロマネスク様式は11世紀から13世紀の250年間にサンティアゴ巡礼を中心に栄えた教会建築美術様式です。雲っていたので画質はちょっと落ちますが。

サンティアゴ巡礼路便り⑭

2016年8月22日

昨日はカストロへリス(Castrojeriz)の巡礼宿に泊まりました。

ここには2007年の最初の巡礼の後、巡礼宿のボランティアのため二週間滞在した思い出の多い土地です。

滞在中は向いの民家(パコとグロリア夫妻)に無償で泊めていただきました。そして食事も洗濯もすべてお世話になりました。

全く面識のない外国人の私を長期間自宅に招き入れるというのは想像できない世界です。

昨日は再会を喜び夕食にご夫婦を誘いました。

食事をしながらいろいろな話をしましたが、二週間滞在中に私は熱を出して二日間寝込んだと言うのです。初日は食事もせずに長時間眠り込んで二日目に食事を徐々に取り始め三日目からボランティアの仕事に復帰した、私が休んでいる間はご夫妻が巡礼宿の世話をした、と言うのです。

話を聞きながら10年前の記憶がかすかに戻り、改めてご夫婦に感謝しました。

サンティアゴ巡礼路便り⑬

2016年8月21日

昨日8月15日、ブルゴスに着きました。教会の階上にある16人収容の小さな巡礼宿に泊まりました。

海抜850m、ここから1週間以上樹蔭のない平らな平原を進むことになります。いわゆるメセタです。

世界遺産の大聖堂、アメリカ大陸発見のコロンブスや中世の英雄エル・シドに縁の遺跡など歴史が詰まった町です。今日はホテルで静かに休んでいます。ただし料金は昨夜の丁度10倍。

昨日、昼食後シエスタで眠っている最中に巡礼宿の二段ベッド上段から落下しました。幸い臀部から落ちたため被害は最小限でした。夜には巡礼宿名物の南京虫に手足を5箇所ほど噛まれました。というわけで散々な1日となりました。これも巡礼の一部です。しかし二段ベッドの上段にはもう寝ないようにします。

 

サンティアゴ巡礼路便り⑫

2016年8月20日

8月14日、人口35人のアヘス(Agés)村にやって来ました。ここは2007年最初の巡礼を終えて初めて巡礼宿のボランティアを経験したところです。パエリアの作り方を教わったのもここです。宿の食堂の壁には色あせた私の写真が今も掛けられています。巡礼宿の名前はエル・パハール(El Pajar)、麦藁置き場という意味で、もともと農家の麦藁置き場だったところです。その後も何回かボランティアで滞在しました。今ではイサベルとルイスにかわって別の夫婦が運営をしていますが同様に歓待してくれました。村に入って角のバルのおばさん(マギー)に最初に捕まってジョッキー二杯のビールと昼食をご馳走になり、何人かの村人を訪問して近況を報告しました。この村は私の巡礼の原点の一つです。

サンティアゴ巡礼路便り⑪

2016年8月20日

8月11日、31km歩いてサント・ドミンゴ・デ・カルサダに来ました。この宿泊施設は211人収容できます。すぐ近くの大聖堂内には「鶏伝説」にちなんで一つがいの鶏を飼っています。またこの巡礼宿の庭にも一つがいの鶏が飼われていて交代で当番をこなしています。

今日もリオハのブドウ畑を見ながら歩きました。涼しかったので距離は長めでしたが体への負担は大きくはなかったです。

 

「鶏伝説」

昔、ドイツから年頃の息子を連れた夫婦の巡礼者がこの村にやって来ました。すると村の娘がこの息子を好きになってしまいました。しかし 息子にはこの娘のことは全く興味がありません。腹を立てた娘は、自宅の大切な銀の食器を息子のリュックにそっと詰め込んで、村の役人に息子が盗みを働いたと言いつけました。その頃、村人は巡礼者をもてなす義務がありましたが、一方巡礼者の犯罪には厳しい処罰が待っていました。息子は縛首の刑に処されたのです。悲しみながらも夫婦はサンティアゴまで巡礼を続け、帰路再びこの村にやって来ました。すると不思議なことに息子はまだ生きていたのです。驚いた夫婦は早速村の役人のところへ行って事情を話して助けてほしいと懇願しました。すると食事中の役人は「そんなバカなことがあるもんか。それはまるでこのテーブルのローストチキンが起きあがって「コケコッコー」と鳴くようなもんだ。」と言いました。すると突然そのローストチキンが起きあがって「コケコッコー」鳴いたのです。驚いた役人は大急ぎで息子を無罪解放しました。

サンティアゴ巡礼路便り⑩

2016年8月17日

8月10日、ログローニョ(Logroño)から沢山のブドウ畑を通り19km歩いてベントサ(Ventosa)に来ました。6年ほど前、ここの巡礼宿にしばらくボランティアとして滞在しました。管理人のユタはオーストリア人で、他の部屋はほぼ満員なのに六人部屋を無料で提供してくれたり、昼食に招待してくれたりなど大歓迎を受けました。

サンティアゴ巡礼路便り⑨

2016年8月17日

8月9日、ナバラ州からワインで有名なリオハ州に入りました。巡礼路にもブドウ畑が多くなりました。


ビエナ(Viena)の町で一人の老人が日本語で声をかけて来ました。この老人はホセ・マリア神父で、セグラ神父(40年以上日本に滞在)とは15歳の神学校からの付き合いで、四国丸亀市の教会には一緒に7年間務めたとのことです。私はセグラ神父とは5〜6年前に知り合い、毎年食事をしながら巡礼のことや交流のことを話し合っています。故郷のバスクでお会いしたこともあります。不思議な力があるのかもしれないと思わせる出来事でした。

サンティアゴ巡礼路便り⑧

2016年8月13日

8月8日、巡礼路の古いて小さな村Los Arcos(ロス・アルコス)に着きました。

歩いていると「パトリックを知っていますか?」とたどたどしい英語で話しかけてくる初老の巡礼者がいました。カメラの中のパトリックの写真を見せると、「この人です。パトリックからあなたのことを聞いていました」と言う。パトリックは65歳のフランス人で、一月前にフランス国内を片言の英語で4日間一緒に歩き、彼は故郷に帰りました。その初老の巡礼者はその場でパトリックに電話をかけて私にその電話を渡しました。電話の向こうは確かにパトリックの声でした。周りから驚きの拍手が起こりました。

サンティアゴ巡礼路便り⑦

2016年8月13日

8月5日、ナバラ王国の首都パンプローナに着きました。7月の牛追い祭りが有名です。

 

聖フランス・ザビエルに因んで山口市と姉妹契約を結んおり、市内に山口公園があります。車で1時間のところには彼が生まれたザビエル城があります。

 

私にとってはこれまで巡礼とテレビ番組の撮影で何回も訪問したことがある懐かしい町です。

 

ここで2連泊して

1. 休養

2 交流関係の連絡と調整(ガリシア州政府、レオン県庁ほか)

3. 携帯電話とタブレット(インターネット専用)のSIMカード入れ替え

4. スペインにいる友人達(日本人、スペイン人)と連絡

5. 散髪と中華料理

にあてる予定です。

 

友人達と連絡をとっていると、セビリャに住んでいる日本人Mさん(80歳台)が6月30日に亡くなっていることがわかりました。丁度私がフランスのル・ピュイを出発した日です。Mさんはコリア・デル・リオのハポンさん達と交流があり、5年程前にセビリャとコリア・デル・リオ(車で30分)を訪問した時に知り合いました。以後毎年スペインに来ると電話で情報交換をしていました。

 

夜になるとアンヘル(地元)とアナ(サンセバスチャンから出張中)の案内でバル街へ繰り出しました。

街は大勢の人でごった返していました。ピンチョン(おつまみ)とワインでバルをはしごしていると巡礼路で知りあった多くの人たちと出会いました。

サンティアゴ巡礼路便り⑥

2016年8月5日

8月2日、麓の町サンジャン・ピエ・ド・ポーを朝7時に出発しました。

ピレネー山脈を越えるのは今回で3回目(2007年、2009年)。今日のピレネーは快晴。緑の山と青空のコントラストはこれまで以上に美しく見えました。標高差1200mなので、普段登っている丹沢の山(大山、塔ノ岳など)と同じ程度ですが、重い荷物(11kg)を背負っているので次々と他の人達に抜かされました。少しきつめの傾斜になると深呼吸が続きます。(ちなみに昨年の人間ドックの肺機能年齢は49歳)

それでも標準所要時間の30分遅れでスペイン最初の村ロンセスバージェスの巡礼宿に到着しました。

巡礼宿は世界中から来た多くの巡礼者でごった返していました。

途中、国境を越えましたが、表示がないので、いつ越えたか明確にはわかりません。

 

フランス国内では巡礼者はほとんどが中年以上のフランス語しか話せない(話さない)フランス人でした。フランス語が全くわからない私には食事の時間が一番大変でした。今日の夕食のテーブルはイタリア人6人とドイツ人二人(母親と15歳の娘)。15歳の娘に「学校以外で英語を習っているの?」と尋ねると、「学校だけです。成績は60%が筆記、40%が会話です」と言いました。ドイツ人(特に若い人)が英会話が上手な理由がわかりました。

 

フランス国内の一月にわたる巡礼には、アップダウンのキツさ、猛暑さらに言葉(フランス語)の壁から来る孤独の三重苦がありました。しかし裏を返せばとても貴重な一月でした。

1. 言葉がわからない辛さ、特に体調がすぐれない時の心細さを体験できました。帰国後の医療通訳活動などに生きると思います。

2. 活動の優先順位(時間配分)をゆっくり考えることができました。

3. スペイン語を勉強する時間が多く取れました。(単語、熟語の暗記・復習)

 

これから一月かかってサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂を目指して歩きます。

サンティアゴ巡礼路便り⑤

2016年8月1日

今日は24km歩いてOsbat(オスバット)に着きました。

今日で過去10年間の巡礼総距離は目標としていた10000kmを越えました。

と言っても特別な感動が湧いてくるわけでもありません。

9月に71歳になります。

新たな目標をどうするか、宿題ができました。

 

明後日はピレネー山脈を越えてスペインに入り、もう一月かかって最終目的地のサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指します。

数日前から右足親指の先端に5mmくらいのマメができたので、針と糸を使って処置をしました。

もう一月も歩いて、これまで何もなかったのに----。

歩いていると転倒、マメ、靭帯・腱・関節などの炎症や痛み、熱中症、胃腸障害、などのリスクがあります。もっとも厄介なのは精神的にダウンすること(プッツンすること)です。これらのリスクをうまく処理して無事サンティアゴに到着できるかな?